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新春座談会 文明史の中の明治維新

2018/01/01 0:31
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 今年は明治維新から150年を数える。アジアの近代化の先駆けとなった大変革の文明史的な意義、光と影そして今日の日本人が学ぶべきことについて東大名誉教授・小堀桂一郎氏、作家の竹田恒泰氏、平成国際大学教授・浅野和生氏に語ってもらった。

 ――最近の歴史研究や読書界の傾向としては、明治維新に関して、いわゆる薩長史観に対する見直しということもあり、江戸時代が残した遺産を再評価する傾向があります。そのあたりから、お話しいただければと思います。

小堀桂一郎(こぼり・けいいちろう)昭和8年東京生まれ。東京大学文学部独文科卒。同大学院博士課程修了。文学博士。東京大学名誉教授。著書に『森?外』『日本に於ける理性の傳統』など。

 小堀 明治維新とそれに続く文明開化は大きな成果を収めて、日本は五大列強の一つに入ったというのが、いってみれば明治の結論ですが、夏目漱石が明治44年8月に和歌山で講演した「現代日本の開化」という有名な講演があります。これは名講演とされ、私もずいぶん考えさせられました。漱石は慶応3年生まれの人ですから、明治44年というと44歳ですが、少し前の文久2年に生まれているのが岡倉天心で、天心は明治37年に、漱石の講演と、かなり対蹠(たいしょ)的な意見を述べています。

 漱石の「現代日本の開化」のポイントは、「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」。要するに日本の開化は外からの要求によって開化が始まったという見方です。そして「開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘(うそ)だと申し上げたい」といい、「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」と、こういう結論になる。これは、明治維新と文明開化の成功に酔っていた明治末年の人たちに反省を強いる言葉として、人々がずいぶん玩味してきた。私もある意味では漱石の言う通りだと思います。

 ところが、これに対して全く反対の見方を漱石に先立って提出していたのが天心なのです。天心は明治37年、日露戦争の始まる直前に“The Awakening of Japan”(「日本の目覚め」)を英文で著しています。その結論を先に言ってしまうと「日本の文明開化は内発的である」ということで、天心は日本の内発的な改革、日本の目覚めを用意した要素に三つがあると言っています。第一は古学派の学問、第二が陽明学派の学問であり、それから最後に国学派がくる。この三つが現代の日本を用意したのだというのです。古学派は伊藤仁斎、荻生徂徠といった人たち。この古学派について天心が特に強調しているのは「学問の自由という考え方は古学派から始まっている」ということです。

 ところが、学問の自由だけでは国は動かないので、そこに「知行合一」という実践道徳を重んじる陽明学派が現れる。これは山鹿素行あたりからでありますけども、これが武士の心に強く訴える。長い戦国乱世の時代を克服して、日本の武士階級は250年の太平の時代に「いざという場合には行動だ」というモラルをずっと培ってきたというのです。そして現れた第三のものが国学だというのです。古学が現れて初めて日本人の知的自由の理念を樹立し、ついで陽明学派の行動のエネルギー、それらを日本という国家単位にまとめていったのが国学だと。つまり本居宣長以下の系列ですね。

 契沖という国学者がおりますが、契沖は古典文献学の開祖であるというべき人です。西洋には例えばゲルマン文献学がありますが、これがドイツの国学に相当する。これが現れて、初めてドイツ人は次第に国民意識に目覚めていった。これと同じ役割を果たしたのが契沖であるということが言えるわけで、契沖の学問的方法の実践者として本居宣長が現れる。そしてこれに呼応したのが水戸学で、会沢正志斎の「新論」が書かれる。こうして内部で次第に熟成してきた日本人の国家意識、これを天心は「内部からの声(the voice from within)」であったと言うのです。そしてよく、嘉永6年にペリー提督が4隻の黒船を連れてやって来て、日本人の対外意識を目覚めさせたと言っているけど、それは維新の変革のほんのきっかけを与えたのであって、それ以前に、日本人は着々と内部からの声、内部の充実をもって日本の近代を形成してきたというのが天心の説なのです。

 そうしてみますと、漱石の現代人への反省の要請は、よく言ってくれたと思いますが、天心が言うように、ペリーが来た時にはすでに変革の機は熟していたのです。

竹田恒泰(たけだ・つねやす)昭和50年、旧皇族竹田家に生まれる。慶應義塾大学法学部卒。専門は憲法学。著書に『語られなかった皇族たちの真実」など。近著は『天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか』。

 竹田 小堀先生のお話、最初に漱石の外発的なものだというお話、それから天心の実はそれは内発なんだというお話、すごく分かりやすく、象徴的な話として拝聴いたしました。明治維新のテーマは、私は大きな柱が二つあったと思います。一つは文明開化、最先端の西洋の文化を取り入れるということ。もう一つは、日本の原点である神武建国の精神に立ち返ること。外国のいいものを取り入れるということと、日本の元からあった大切なものを再び甦(よみがえ)らせるということは、一見矛盾するように思えますが、この両方を柱として進めようというのが明治維新だったと思います。

 そのように考えると、漱石の言った外発的だというのは、これはあくまでも西洋文明を入れて西洋化したという点においては、当然これは外発的だと言えましょうし、その半面、神武建国の精神に立ち返るということであれば、それはもともとあったもの、国民本位の天皇中心主義に立ち返るというのは、まさに2000年来、ずっと日本人が実践してきた原点に立ち返ることなので、その視点から見ればそれは内発的だということなので、漱石が言うことと天心が言うことは一見相反するように思えますけども、これはもともと明治維新のテーマが一見相反するように見える二つを立てたというところから当然導き出されることなのかなと、両方とも納得するのはそういうことだったのではないかなと理解した次第です。

 この二つの柱で始まった明治時代ですけれども、明治20年の段階で片方、つまり文明開化ということばかりに傾倒してしまって、神武建国の精神に立ち返るという部分がおろそかになっているのではないかということを、最初に気づいて嘆いた方が、明治天皇だったのではないかと思います。明治23年に全国地方長官会議が開かれ、いまの県知事に当たる人々が1週間缶詰めになって教育問題を話し合った。帝国大学などでも西洋的な科目ばかりが発達していて、国学や道徳など、日本の本来のいいものを教えている科目が存在しないということに明治天皇が大変驚愕(きょうがく)なさって「これでは日本の未来が危ない」と警鐘を鳴らされたのがその発端です。そしてその結果、教育勅語が作られることになったわけです。明治23年になってようやく憲法と教育勅語がそろって、明治維新の目指す、外国のいいものを取り入れる、かつ日本のいいものをしっかりと残すという二つのバランスが取れてきたのではないかと思います。

浅野和生(あさの・かずお)昭和34年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。同大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。平成国際大学法学部教授。著書に『大正デモクラシーと陸軍』『親台論』など。

 浅野 文明開化との関わりで申し上げますと、日本の文明開化は「和魂洋才」ということが言われます。私はよく中国・台湾との比較で見るんですが、向こうは「中体西用」という言葉があります。竹田さんが言われた国民と天皇のつながりということでは、日本の場合、鎌倉以来の幕府の政治があったとしても、明治維新では立ち返るべき天皇という存在が最初からあった。そのため廃藩置県で藩がなくなっても革命の形を取らないで元に戻った。大政を奉還する先があったわけです。ですから目に見えない日本の魂というものについては、形がなくてもつながっていけるというところがある。そういうものがあるからこそ、逆に文明開化では、徹底的に西洋の使えるものは全て取り入れるということができたと思うのです。そのために、高額の謝礼を支払ってお雇い外国人を用いることに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。

 一つの象徴的なことで言うと、暦についても、西暦を入れただけではなくて太陽暦に変えてしまって、それに民衆の通常の行事が次第にそちらに乗っかっていってしまうということをやっている。それに対して、中国の場合は中体西用で本体としては中国なんだと。日本に遅れること四十何年で辛亥革命が起きるのですが、この時に西洋暦を入れるけれども、生活文化等を律する方の暦としては「農暦」という形でそのまま残ってきていて、21世紀の現代においてもお正月は春節でなければできない。日本人は旧暦を意識していても、お正月はお正月で1月1日でも、これを新年として寿(ことほ)げばいいじゃないかと。それで天皇陛下と共にお祝いできてしまうということは、形として見えているものの奥にずっとつながってきているものがあって、それ故に逆に物質的な、あるいは科学技術的なところについては全てを取り入れることが、案外容易にできたのではないかという気がします。

 小堀 西洋の近代をしきりに取り入れながらも、日本の古来の在り方を残していくという努力は、明治人にとっての非常に大きな課題だったと思います。例えば、漱石と並び称せられる鷗外も一番悩んだのがそこだった。よく鷗外を「二本足の学者」と表現します。西洋にも足をしっかり踏まえて、片足は日本の大地を踏んで、そして彼らしい学問を形成していったということなのですが、私は「西洋と日本」という対比を、鴎外の場合はもう少し広げて考えるべきだと思うのです。つまり学問の普遍性と文化の固有性という二つの足場です。

 鷗外はドイツに留学して19世紀のドイツ医学を学ぶわけですが、当時のドイツの自然科学は、人間の知性で世界の謎は全部解けるという自信と意気込みがあった。その影響を受けた鷗外は、ご存じのように脚気の研究で細菌原因説に立って失敗する。経験医学の立場に立つイギリスの栄養学説が正しかった。この失敗に気づいた鷗外は一種の衝撃を受けたと思います。若い頃には、普遍的な真理を人間はつかみ得るという近代主義の自信があったが、有名な小説「かのように」にある、合理主義とか近代主義ではどうしても割り切れない歴史の不思議、歴史の重みに気がつく。それは歴史主義といっていいでしょう。そして鷗外はある時期から、史伝、歴史研究に深入りし始める。★外は代表的な人物なので、分かりやすいのですが、この近代主義と歴史主義の問題は、実は明治日本の知性そのものが抱えた大問題だったと思います。

 ――明治期、西洋文明と出合った日本の知識人の複雑な世界というのは、例えば、幕臣から啓蒙思想家、教育者となった福沢諭吉の「一身にして二生を経る」という言葉に象徴されています。しかし、開化の先頭に立った福沢も単純な欧化主義者ではなく、まして西洋崇拝でもありませんでした。

 浅野 福沢諭吉の場合、まず緒方洪庵の適塾で蘭学を学び次に英学に移っていった。だから慶應義塾はもともと英学塾だった。しかし福沢諭吉のもっと元の原点は何かというと徹底的に四書五経。「春秋左氏伝」を11回読んだとかそういうところにいく。それから自分が慶應義塾でやっていた教育の場合は、社会啓蒙としては漢学を非常に排斥するようなことをやっていますが、その本人の人間関係の処し方としては忠義であったり、あるいは孝であったりということは生涯貫いていて、本人の行動パターンとしてはむしろ伝統的な価値観を非常に大事にしている。「咸臨丸」に従僕として乗せてくれた木村摂津守への恩義には生涯を通じて報いようとしています。

 先ほど竹田さんが、明治20年の段階で文明開化に傾倒し過ぎたことに最初に気づかれたのが明治天皇ではなかったかというご指摘がありましたが、福沢は明治24年に『瘠(やせ)我慢の説』を書いていますね。公表されたのは明治34年になってからですが、勝海舟の江戸開城に対して、江戸を兵火から守ったことを評価しながら、「三河武士の精神」に背いた行動であって、一時の兵禍を免れしめたにしても「万世の士気を傷つけた」と言っている。これも福澤の一面を表していますね。

 竹田 外来の文化がどんと入って来た一番最初は恐らく縄文時代晩期でしょう。日本人は、大自然が豊かだからちょっと行けば海でも山でも何でも採れたので、農耕という面倒くさいことはしてこなかった。当初は日本文明の方が高かったが、農耕文明の発達した中国に抜かれてしまった。そこに気づいて積極的に中国から学ぶようになった。聖徳太子の時代に留学生を派遣したり、まさに中国から最先端の文化を学ぶということをしてきたわけだが、それによって当時、もともと日本にあったものと、中国・朝鮮から来たものと、どう折り合いを付けてゆくのか、西洋文明開化の時にあったのと同じような悩みを乗り越えてきたのではないかと思います。例えば、漢字なんかも中国の文字をそのまま持ってきて、音と訓を付けて並列して使うという、かなり高度なことをやってのけてる。 ですからこれからも海外からいろんな異質のものが入って来るとしても、いいものを取り込みながら、それらをかみ砕いて、何百年後にはまた日本独特の進化を遂げていくのではないかと思います。

 小堀 浅野先生はお雇い外国人のことを話されましたが、そのときの日本側にはやはり学問的真理の普遍性に対する信頼があったと思う。それに対して日本人は開かれた態度を取っている。その開かれた態度は今竹田さんがおっしゃった縄文時代のことからなのかもしれないが、明治維新の成功の一つはその普遍的な真理に対して開かれた感性だったでしょう。お雇い外国人が伝えてくれる技術の根底に正しい学理があるから、この技術はいろいろ役に立つんだということ、関連をちゃんと見ていたのだろう。それが維新の成功の一つだったと思います。

 浅野 お雇い外国人の使い方に成功した前提は、逆に日本人の側が、非常に当時としては大変な規模で留学をしているということがあると思います。しかも実はそれは幕末から始まっており、福沢について言えば明治になってからではなく、その以前に3回洋行している。当時、世界的に見ても、そういう体験をする人はなかなかいないんじゃないか。はっきりと学ぶ意識を持って3回、アメリカやヨーロッパに行くということをやっていた。そもそも幕府は、幕末8年間で欧米視察に260人以上、留学生46人を派遣した。それから伊藤博文にしても井上馨にしても、そういう経験を持っている。お雇い外国人も入れるが、受け止める側の日本人がちゃんといて、一方的に押し付けられるのではなく、使っていくこともできる。

 ――維新後間もない明治4年から2年近く欧米を回った岩倉使節団は、条約改正の予備交渉とともに、西洋文明の実態調査という目的があり、留学生も連れて行っています。新政府の中枢がごっそり海外視察に出るなど例がありません。

 竹田 大和時代、奈良時代、その後もたくさんの有識者が大陸や半島から来る。そういうのを取り込んで学んでいった。日本人って学ぶには謙虚に構えて、自分たちよりもその分野に詳しい人がいたら、その人から習おうという気持ちが非常に強い。それで学んでいった末、例えばお米一つとっても、中国よりも日本の方が今おいしい米を作っているわけだし、漢字を日本人以上に使いこなしている民族はいない。暦もそうだ。中国・朝鮮からもらった暦だが、江戸時代に作った暦が人類史上最も正確な暦だった。外国人を入れながらいろいろ学ぶのですが、また一緒に積み上げていくと、どこの世界の人たちも真似できない高みまで上がってくる。そういう謙虚さとそれを積み上げていく、努力する力と、それぞれうまく融合した結果だと思う。

 小堀 近代の中国の学術上の漢語は日本から入って来たものが大半です。中江兆民がルソーの「社会契約論」を「民約訳解」という漢文に訳したのが明治15年だったか、それが当時の清国に輸入されて大きな影響力を持ちました。辛亥革命などという動きも、兆民の訳した民約訳解に学んでいる。兆民が東洋のルソーと言われたのはもっともで、明治の日本人は西洋の知恵をよく消化して、それを漢文にする力があったために、当時の清国の漢語を使う知識人たちがみんなそれに学んで、近代に目が開かれたわけです。

 浅野 ただ言葉が一人歩きするということもあって、「Constitution」を「憲法」と訳したのは日本人ですが、「憲法」という言葉を充てて、国家の基本的な骨格を作り、国家目標を定める法律を表す言葉だとやってしまった。それが日本人にとっては聖徳太子の時の「憲法」とのつながりを感じてしまうために、「憲法」というと特別な法であって、一般の法とは違うという感覚を自然のうちに感じさせてしまう。もし「Constitution」を国家基本法とかにしていれば、もっと時勢に応じて修正していいものになったかもしれません。「憲法」という訳語を充ててしまったために、非常に扱いづらいものになってしまった。見事な訳かもしれませんが。

 竹田 確かに十七条憲法を改正しようなんて誰も思わない。しかも大日本帝国憲法は明治天皇が発布なさったものだから、恐れ多くもそれを変えようなんてことはならなかった。

 浅野 もともと国家の基本法として国家の枠組みであったり、国家目標というものが明治以前に公的文書として、大日本帝国憲法以前になかったわけではなくて、いくらでもあった。ところが明治の時代に、そういう形で表されたがために、それより前には日本にはそういう法制度があたかもなかったかのような印象を今の普通の人たちは持っていると思います。

 小堀 聖徳太子が憲法という言葉を作って下さったことは、例えば関東御成敗式目51か条に見事に反映します。実はあれは十七条憲法を天地人に分けて、三部に分けて、それで51になっている。御成敗式目を読んでみると、あれは意図して51条に揃えたということが分かるのです。それ以降も17という数はしきりに使われますが、これは割り切れない数、素数だが、聖徳太子の昔にさかのぼって、こういうものを自分たちが持っていなければいけないという意識をずっと受け継いでいる。帝国憲法が、最終的に歴史主義に基づいて、つまり歴史法学に基づいて作られたのは非常によかったことだと思います。普遍的な学問的真理と自国の文化伝統との絶妙な兼ね合いということが、ああいう形で成立してくる。

 浅野 それでも制定過程を見れば、まず皇室典範を枢密院会議で徹底的にやって、それが全部終わってから、いわゆる憲法に入っていくわけです。だからそれは両方合わせて憲法であることは明確なわけですが、そのあたりは今回の御譲位の話というところになると、果たしてどういう風に変えてしまったのか。

 小堀 歴史を振り返ってみると、自分たちの過去にはこれだけの複雑多岐な事蹟があって、言ってみれば過去の伝統の蓄積を持っている。この蓄積に基づいて判断すれば現在の非常に難しい時代、日本国民がどう行動、決断しなければならないかも分かってくると思う。特に立法府の皆さんにはぜひこの辺で、じっくり歴史を研究していただきたい。そうすれば、道が見えてくるということを申し上げたい。それは明治維新150年、明治維新が果たして本当に成功だったのかなどという説もこの頃出てきていて、例えば会津戦争は大きな間違いだったのではないかという説も出てきている。しかし私は大きな目でもって振り返ってみれば、個々の失敗例を克服して、維新の成功には十分学ぶところが出てくると思っています。

 竹田 何事にも光と影があり、維新の光の部分はずっと語られてきたが、闇の部分はあまり表に出てこなかった。それが実際150年たってみると、孝明天皇に最も忠誠を尽くした松平容保が攻められた会津戦争や日本文明が明治維新を機に衰退した部分もあったということに、ようやく光が当たってきた。歴史として見ることができる時代が、ようやく到来したのではないかと思います。江戸時代はかつて暗黒の時代だったと言われていたが、徐々に評価に値するということになり、江戸時代に良かったものが、明治維新でもって終わってしまったものもあるわけです。この光と影両方ともようやく見られるようになってきた。

 そこで維新の評価の中で、完全に欠落している部分があるとしたら、恐らく孝明天皇の評価だと思います。孝明天皇は恐らく幕末維新史の中心人物のはずなのですが、学校の教科書の中では名前は出てくるけれど、じゃあ孝明天皇は何をした方ですかと聞かれると、答えられる人はなかなかいない。これは恐らく孝明天皇が最後の最後まで倒幕に反対していたため、明治新政府からすると孝明天皇についてはちょっと語りにくかった。意図的に封印してきた風がある。逆にこの孝明天皇に光を当ててみると、最後まで攘夷にこだわったのは、このまま日本を放っておいてほしいという気持ちとか、天皇であることの責任において、そういうグローバリズムに日本が引きずり込まれようとする中での最後の抵抗ではなかったかと思われるのです。

 そんな孝明天皇の生きざまを見ると、まさにこの明治維新によって無価値なものとして切り捨てられた中に、もしかしたら孝明天皇がいたんじゃないかと思うわけです。戦前までは孝明天皇について語るということがタブーのようになっていましたが、戦後になって徐々に孝明天皇の周辺の情報が表に出るようになり、かつて見えなかった維新史が新たな資料によって見えてくる部分があると思います。

 竹田 私は両側面があると思います。孝明天皇の取った政治的ポジションというのは、とにかく開国には反対すること。かつ公武合体です。孝明天皇は攘夷と言いつつ、幕府と一体となれと言う。維新の志士たちとは幕府を大切にするということでは一緒になれない。でも、攘夷の部分では共鳴する。複雑に入り組んでいるのです。幕府がどんどん力を落として孝明天皇の権力が強まっていく中で、孝明天皇が何か言うと「おお!だから攘夷じゃないか!」となるし、「ほーら、だから公武合体じゃないか!」となる。攘夷派と公武合体派に分かれて対立する。この二つの勢力の生みの親は誰ですかといったら、これは明らかに孝明天皇なわけです。孝明天皇の言葉によって攘夷派が元気づき、また逆にしゅんとなってしまう。そういう中で、倒幕への最大の障壁となっていた孝明天皇が御隠れになることによって、一気に倒幕が実現する。あのタイミングで孝明天皇が亡くなったということで、陰で暗殺ではないかと言われたりするのです。このようにものすごく大きな影響力を持っていた孝明天皇をほとんど語らずに幕末維新史を語るから、すごく分かりづらく難しいものになっている。

 ――先人たちは、明治維新という大変革を成し遂げて、欧米列強の西力東漸という国難に対処していったわけですが、今の日本を取り巻く状況も、それに似た国難の時代と言えると思います。

 浅野 150年前の当時の世界においては今以上に国際標準なんてものは実は全然なかった。ただ日本人、例えば坂本龍馬など、なぜか万国公法とか、西洋基準を国際標準とかなり思ってそれに接触していったところがあります。開国し文明開化といった時には、和魂洋才と言いながら実態としては西洋に合わせていってしまう。その感性としてはあたかも普遍があるという前提で、科学であれば普遍があっていいが、それに合わせていった。その後は、国際社会秩序、アジアの秩序を日本自体が能動的に作っていく一員としていこうという努力をするわけですが、ところが戦後から今まで、実は国際標準があるかのように、世界政府などないのに、世界秩序があるかのように行動している。かつてアジアの一角から主体性を持って西洋化に取り組み、アジアの秩序を作ろうとしていった日本であるなら、150年後の今もやはりそれでやっていかないといけないと思います。もう一度日本は歴史と伝統に立ち返って、世界に向かってアジアの秩序をどうやって作るのかを示す必要がある。今の日本ならら、そういう発信をできるはずです。

 竹田 グローバリズムがこれほど叫ばれて、今ようやく曲がり角に差し掛かっている。イギリスがブレグジットでEUを出る、もしくは内向きと言われたトランプさんが大統領になる、そんな波がある。ヒトとモノとカネが国境障壁なく自由に動けるというのがグローバリズムですが、今それが良くないものと言われるようになった。これまでいいヒトとかいいモノとかいいカネが動く分には歓迎されたが、テロリストみたいな悪いヒトとか、もしくは石油の闇市場で売った悪いおカネとか、武器みたいな悪いモノ、こういったものが国境に関係なく自由に動けるようになると本当に恐ろしいことになる。そう考えたときに、グローバリズムの先にあるものは何かと考えると、恐らくローカリズムではないかと思います。そうすると、これまで国や国境があるのが馬鹿らしいと言っていたのが、国家があるのは素晴らしい、国境は必要だとなる。国家があるということを相互尊重し合いながら、民族や国同士に相互尊重して響き合うことを考えれば、まさに日本がかつて三十カ国の国に分かれていたのを、戦争を経ず話し合いで統合を果たし、今強固な日本国という国を形成した歴史の意味が浮かび上がってくる。これを考えたときに、国家を相互尊重するというローカリズムを徹底していった先に、その上にあるグローバリズムを達成するという、日本が成し遂げてきたことが、もしかしたら世界を調和に導く一つの要素になるのではないかと思います。

 小堀 大いに同感で、大変な難事業ではあるでしょうが、将来日本が目指していく、一つの大きな目標であると思います。固有の文化伝統を守るためには、やはり国家に頼るよりほかに仕方がない。国家以外に今、国際秩序を保ち、形成していく力の単位は考えられません。単なる地域にも、また「イスラム国」(IS)のような特殊なイデオロギーを団結の基としている組織とか団体には、これは不可能です。国家の形を取っていなければ、国際社会の形成に参加することができない。その事実を日本は少なくとも2000年、万世一系の国体を守ってきたというこの在り方を通じて世界に示していくことができるんじゃないか。ただ、それを納得させるのは難しいことだと思う。日本人はとにかく宣伝が下手で自分の自慢話ができない国民ですから。しかし、私はそれを目標にすることによって、日本も再生することができるし、あるいは世界の秩序の再生に貢献することができる、そんな希望が捨てられません。

出典: vpoint.jp

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