台湾に西郷家の足跡 従道の古戦場 進む再検証 台湾出兵の歴史語り継ぐ

2018/02/19 2:25

4 0

台湾に西郷家の足跡 従道の古戦場 進む再検証 台湾出兵の歴史語り継ぐ

 台湾最南部の屏東(へいとう)県。車は山道に入り、先住民パイワン族が多く住む牡丹郷に差し掛かった。この辺りは明治政府初の海外派兵となった1874年の「台湾出兵(牡丹社事件)」の激戦地跡。現在は石門古戦場と呼ばれている。遠く台湾海峡を望む丘の上に、大きな石碑が建っていた。碑文は剥がされ、文字は刻まれていない。

 石碑は日本統治時代の1936年、出兵を指揮した陸軍中将、西郷従道を顕彰する「西郷都督遺跡記念碑」として建立された。だが戦後、中国から来た国民党の独裁下で、碑文は祖国復帰を意味する「澄清海宇還我山河」に付け替えられた。

 2016年、台湾の主体性を重視する民主進歩党(民進党)の蔡英文政権発足を機に、史跡や建造物を本来の姿に戻す「歴史現場再生」の動きが本格化。これを受け屏東県は同年10月、県文化資産審議委員会の決議を経て、「西郷碑」復元への一歩として、戦後の碑文を取り外した。

 台湾出兵はそもそも1871年に琉球(沖縄)宮古島の年貢船が台湾南部に漂着し、上陸した54人が現地のパイワン族に殺害されたことが発端。元牡丹郷長(村長)でパイワン族の華阿財さん(79)は「集落の人々は貴重な水や芋を分け与えたのに、漂着した人たちは逃げようとした。言葉が通じず、誤解したことが悲劇を招いたのではないか」と推測する。

 明治政府はその3年後、事件を口実に出兵に乗り出した。西郷従道は3600人もの兵を率いて台湾南部に上陸し、海辺に陣を構えた。従道の戦略について、中央研究院民族学研究所(台北市)の黄智慧・助理研究員は「山地に暮らすパイワン族に対しては威嚇の意味が大きかった。諸外国に日本の軍事力を誇示する目的もあったのではないか」と分析する。

 ライフワークとして牡丹社事件の研究に取り組み、長老の聞き取り調査なども続けてきた華さん。2005年には沖縄を訪れ、宮古島の事件関係者の子孫と交流を深めたという。「次世代のために史実を検証し、和解につなげるのが私たちの役目だ」と力強く語った。

 西郷隆盛が奄美大島に身を潜めていた時に、地元の女性、愛加那との間に生まれた菊次郎は1895年、日本の台湾領有と同時に台湾総督府に赴任。97年から5年半にわたり、初代宜蘭庁長(知事)として地方行政を担った。

 毎年洪水を繰り返す宜蘭河に住民が悩まされていることを知った菊次郎は、総督府と交渉して堤防を築き、町と農地を水害から救った。さらに教育や衛生施設を整備した。その功績をたたえ、離任後の1905年、地元有志が「西郷庁憲徳政碑」を建立した。

 石碑は戦後、中国から来た兵士の住居群に埋もれていたが、90年に発見され、宜蘭県によって堤防の上に再建された。2014年には鹿児島西(鹿児島市)、宜蘭両ロータリークラブが共同で、石碑のそばに日本語、中国語、英語の解説板を設置し、菊次郎の善政を伝えている。

 1906年に落成した木造日本建築の庁長官舎は、100年の時を超え、今は「宜蘭設治記念館」として菊次郎関連文書を含む郷土資料を展示している。

 1871年、琉球・宮古島の年貢船が暴風雨に遭い、台湾南部に漂着。66人が上陸したが、現地のパイワン族に敵と誤解され、54人が殺害された。日本は清朝に抗議したが、清朝は台湾先住民を「化外(けがい)の民(統治の及ばない民)」として責任回避したため、74年、西郷従道率いる部隊が台湾に上陸し、パイワン族集落の牡丹社などを制圧した。日本は清朝に琉球の日本帰属を認めさせ、賠償金を得て撤兵。その後、清朝は台湾統治を強化するなど同事件は日本、台湾、中国の近代外交史の転機となった。

出典: nishinippon.co.jp

カテゴリページへ

Loading...