国民のための国防常識 ~ 憲法学者に惑わされないために

2017/09/03 4:16

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 朝のテレビ・ニュースを見ていたら、突然、それを遮って、「北朝鮮から弾道ミサイルが発射されました。屋外にいる場合は、近くの頑丈な建物や地下(地下街や地下駅舎などの地下施設)に避難して下さい」とのテロップとアナウンスが流れた。全国瞬時警報システム(Jアラート)というシステムだそうだ。

 北朝鮮の最近のミサイル実験が、我々の日々の生活にも影響を及ぼし始めた一瞬だった。こういう現実に直面すると、野党やマスコミが今まで騒いでいた森友やら加計学園の空騒ぎぶりが、改めて国民の目の前に明らかになった。

 ちょうど、自由民主党本部で湾岸戦争以降のすべての安全保障・防衛政策の策定・立案等に関わってきた田村重信氏の近著『知らなきゃヤバい! 防衛政策の真実』を読んでいたら、唖然とした一節があった。「今までの危機管理法制というのは、危機が起きてからでないと法制はできませんでした」と氏は指摘しているのだ。

 昭和34(1959)年の伊勢湾台風で死者・行方不明者5千人以上を出して、災害対策基本法ができた。よど号ハイジャック事件の後に「ハイジャック防止対策本部(常設)の設置」などが決められた。平成7(1995)年の阪神・淡路大震災では、放置車両が自衛隊の救援活動を妨害したので、災害対策基本法が一部改正された、という具合である。

 防衛政策や危機管理体制に関して、実際に被害が出てからでないと考えない、というのは、我々現代日本人の一大欠陥ではないか、と思えてくる。この点で、Jアラートシステムにしろ、昨年の平和安全法制にしろ、北朝鮮からの脅威に対して、現実の被害が出る前に対応が少しずつでもなされているのは、一歩、前進だろう。

 防衛政策に関して、なぜ「危機が起きてからでないと法制はでき」ないのかは、田村氏の著書を見れば良く分かる。その都度、左翼が激烈な抵抗をしていたからである。

 昭和35(1960)年の日米安保条約改定では、「米国の戦争に日本が巻き込まれる」と、全学連のデモ隊が国家に突入し、激しい反対闘争が繰り広げられた。

 平成4(1992)年のPKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加に道を開くためのPKO協力法案審議では「戦争への道だ!」と社会党、共産党が反対し、朝日新聞も「PKO協力の不幸な出発」と題した社説を発表した。

 平成11(1999)年に有事関連法制が国家に提出された時も、「有事法制は戦争法だ」「アメリカの戦争に協力するためのもの」などと左翼は反対した。

 その後、カンボジアやモザンビーク、南スーダンなど各地における自衛隊の活動は世界の平和に大きく貢献し、各国から感謝され、国際的にも高い評価を得ているのはご存じのとおりです。当時、猛烈に反対していた朝日新聞なども、今では自衛隊のPKO支持に転じています。[1, 1588]

 昨年、成立した平和安全法制に関しても、野党やマスコミの一部は「安倍政権は日本の軍国化を目指している」「米国が起こす戦争に荷担することになる」などと批判をした。60年安保以来、半世紀以上もの間、現実を見ずに同じ批判を繰り返しているのである。

 一般社会で、ある人物が50年以上も誤った言説を主張し続け、しかも間違っていた事実を認めず、反省も謝罪もしないとしたら、そんな人物はどう受けとめられるだろうか? 間違った信念に凝り固まった狂信者か、別の目的のためにそのような言説を繰り返す確信犯か、あるいは生活のためにはもはや転向できなくなった利得者のいずれかであろう。

「サシミの法則」をご存じだろうか? 「刺身」ではなく「三四三(サシミ)」である。アリや蜂の社会を観察すると、自ら先頭に立って働く蜂が3割、与えられた仕事をしている蜂が4割、怠け者の蜂が3割だという。

 防衛の分野に当てはめると、国家の平和と安全を守るために声をあげてきたリーダー蜂が3割、黙々と日々の仕事に打ち込んでいる働き蜂が4割、半世紀以上も反省もなく誤った言説をまき散らしてきた抵抗蜂が3割という構図だろう。

 3割の抵抗蜂が狂信者か、確信犯か、利得者であるとすれば、事実も観ず、論理も通らない彼らの考えを変えさせようとすることは無駄な努力だろう。自由民主主義国家では言論と思想の自由があるから、放っておくしかない。

 ポイントは、4割の働き蜂がこれらの抵抗蜂の言説に惑わされずに、自らの目で事実を観て、自らの頭で論理的に考えるようにすることである。それには抵抗蜂たちの言論がいかに事実に悖(もと)り、論理を歪めているかを示すことだろう。この4割の働き蜂が健全な見識を持つことが、自由民主主義社会を護る本道である。

 その意味で、政権与党として、憲法や国際情勢の制約の中で、抵抗蜂と戦いながら国民の安全と平和を守るために苦闘してきた田村重信氏の著書は、4割の働き蜂が国防の常識的な事実と考え方を学ぶ上で好適である。

 抵抗蜂たちが働き蜂を惑わすために用いる代表的な言い分が「自衛隊は憲法違反だ」という主張である。わが国は平和憲法を持っており、戦争を放棄したのだから、軍隊は持つべきではない。したがって、自衛隊は憲法に違反している、という。これに関しては、まず「自衛権」の概念を良く理解する必要がある。

・・・国際法上、日本は国家として当然の権利である自衛権を有するということですので、したがって、自衛行動は憲法上許される。自衛のための戦力に至らない必要最小限の実力という保持もこれは合憲である。[1, p2050]

 平成24(2012)年2月、「民主党政権」時代に野田内閣の藤村修・官房長官が衆議院予算委員会で答弁した内容である。これが伝統的な政府見解であり、最近の安倍首相も同様の発言をしている。

 自民党から民主党に、そして再び、自民党へと政権が移っても、政府としての憲法解釈は、そう簡単には変えられない。責任ある政権政党なら当然の政治姿勢だろう。

 ここで言われる「自衛権」とは、個人になぞらえて考えたら分かりやすい。たとえば、「平和を愛する周囲の人々の公正と信義に信頼して、自分の安全と生存を保持しようと決意した」人は、もし暴漢に襲われたとしても、何の自衛手段もとれないのだろうか。

 誰でも正当防衛の権利はある、というのが、人間社会の常識だろう。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と聖書は説くが、どんな敬虔なキリスト教徒でも「暴漢に長男を殺されたら、次男を差し出しなさい」とは言わない。

 理想と現実のギャップを少しでも埋めようとする努力は大切だが、そのギャップを無視して、あたかも理想が実現しているかのように振る舞うことは、狂信者の行いである。

 アフリカ・ソマリア沖を通過するタンカーなどを海賊から護るために海上自衛隊の護衛艦を派遣する事に反対していたピースボートが、地球一周の船旅で海自に護衛して貰った[2]。彼らは自らの理想が実現していると信ずる狂信者ではなかった、ということである。偽善者ではあったが。

 しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持してその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

 日本国民も「平和のうちに生存する権利」を有する。国家は、国民が互いに助け合う共同体である、と考えれば、国家が国民の「平和のうちに生存する権利」を護るために自衛権を持つというのは、国民に対する義務でもある。これが国際常識である。

 人権を大切と考えるなら、最も基本的な人権は生命の安全なのだから、国民の安全が北朝鮮の核ミサイルに脅かされている現在、人権運動家こそ、現在の防衛体制で国民の人権を護れるのか、と政府に問い詰めなければならない。

 日本が国として自衛権を持ち、「そのための必要最小限度の武力の行使は許容される」というのが、上述の最高裁の判断であり、従来からの日本政府の基本的な立場でもある。

 まず、第一項の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」に対しては、政府は次のような答弁書を出している。

 憲法第9条第1項は、独立国家に固有の自衛権までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められているところであると解している。[1, 172]

「自衛のための必要最小限度の武力」という点が、キーポイントである。9条1項が禁じているのは、北朝鮮が核ミサイルでわが国を脅かしているような武力の使い方であって、その脅威から日本国民を護ろうとする武力の行使は認められている、という解釈である。

 第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」であるが、これに対して、同じ答弁書は次のように指摘している。

 憲法第9条第2項は、『戦力』の保持を禁止しているが、このことは、自衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。[1, 204]

「必要最小限度の実力」に関しては、「性能上専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器については、これを保持することが許されないと考えており、たとえば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母みたいなものは保有することは許されない」としている。[1, 204]

 政府見解はそうだとしても、ほとんどの憲法学者は「憲法9条は『戦力は持てない』としているのだから、自衛隊は憲法違反だ」と考えている。彼らは問い詰めるであろう、「政府見解がほとんどの憲法学者よりも正しい、とする根拠はどこにあるのか」と。この異議に対する田村氏のカウンターパンチは単純明快である。

 憲法81条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と述べている。政府見解が正しいか、大方の憲法学者が正しいのかを、最終的に決定するのは最高裁判所である。

b)憲法の命ずる通り、武力はいっさい持つべきではない。したがって他国に侵略された場合は、それを甘受し、どれほど国民が虐殺、略奪されても仕方がない。

 一般社会の常識から考えたら、b)もc)もあり得ないだろう。それなら、a)を主張すべきだが、憲法学者が改憲を主張している姿はあまり見たことがない。要は、憲法学者の多くは、法学の世界に閉じこもっていて、そこから先を考えてないのである。

 彼らの中には狂信者や確信犯や利得者もいるだろうが、いずれにせよ、3割の抵抗蜂であることは確かである。我々、働き蜂の一般国民は国防の基本的常識を学び、彼らの言説に惑わされないようにしなければならない。

 本書の構成は、現代の国際人、ノーベル賞受賞の大村智氏から始まり、明治天皇にまで遡っている。日本が多くのノーベル賞受賞者を輩出するのは、国際人としての活躍が評価されているからだ。

 しかし、そのルーツは明治維新から、我が国の近代化を実現するために、多くの政府幹部を欧米に派遣したことだ。彼我のあまりの格差に愕然としただろうが、当然ながら国際人としての見識を身に着けて帰国し、政府の要職について活動したことが、明治期の近代西洋文明への挑戦を経て、富国強兵など国力の増進に貢献した。

 皇太子の地球レベルの水問題への関心から、多くの国際会議への参画など、世界の水問題に取り組む連帯の象徴として活動しておられる。皇族の立場を超えて、立派な国際人と言える。

 不幸にして太平洋戦争に敗れたが、その過程、特に戦後処理の過程で、多くの将軍たちが自らの責任を取る形で、部下の命を守った。これも立派な国際人としての振る舞いだ。

 戦後も、多くの日本人が、発展途上国の食糧問題に取り組んできた。中国の米作りの指導、植林の支援、ネパールの高地での稲作指導など枚挙にいとまがない。

 この本には、上記以外にも、明治以来の系譜を引き継いだ、多くの有名、無名の国際派日本人が登場する。今後とも、これらに倣って多くの日本人に国際人としての活躍を期待したいものだ。その意味で、特に青少年の読者に勧めたい一書といえる。

出典: vpoint.jp

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